ひとりごと2021秋
たまにふっと頭に言葉が浮かんで、その言葉がもつ意味を全身で理解して、腑に落ちる感覚を味わうことがある。こうした直観的な言葉は完全だから密度が高くて、自分の中にその重みや安定感が生まれることは心地が良い。ただ、それらを外に出して昇華せねばという思いもある。放出したら還元できるし、空き容量を作ることで新しいものがまた生まれる。今はまず、その循環を滞りなくできるようになりたい。
そんな大袈裟な、という感じだけれど、こういうときは自分に自分が憑依している感覚になる。キッチンでお皿を洗いながら、近所のタリーズでハニーミルクラテ(美味しいよ。おすすめ)を飲みながら、ガラガラの電車で窓に映る自分の顔越しに外の景色を見ながら、ふとした瞬間に。ってかこれを書いている今もそう。憑依っていうとなんだか怖いけど、自分が憑く分には全然困らないからいつでもウェルカム。昇華するためには因数分解しなきゃいけなくて、それを2人の自分が協力しながらやっているみたいだな〜と思う。
とりあえず何すること決めてる?
早いもので今年もあと3ヶ月ちょっと。いかがお過ごしでしょう。
世間を惑わせているアイツには当たり前に早くいなくなってほしいけど、
「楽しく引きこもりつつ、ここぞという時に外出する」
みたいな生活、私は結構気に入っている。双方の濃度が高くなった感じがしてよい。
とはいえ、やりたいけれどできていないことはいろいろあり...今回はそれを共有します。
ってか、
「やりたいことリスト」って名前、私はあんまり好きじゃない。
"まだ叶っていない願望感"が強くてしっくりこない。やりたいならやれば?って思う。普通に。自分に対して。ごちゃごちゃ言ってるひまがあるなら。今すぐ。
だから以下、やりたいことリスト改め、
「いつになるかはわからんがまあやること自体は決まっているリスト」
●ナイトサファリでブチ上がる
今年の夏も決行できず終わりましたが、いつか行くことは決まっているので特に悲しむ必要はありません。いかんせん場所が遠いのが難点で、富士サファリパークは生粋のペーパードライバーにはハードルが高すぎる。ナイトサファリ熱が私と同じくらい高い×運転してくれる人を探さねば。
●スカイダイビングかパラグライダーで宙を駆け抜ける
これも2年以上前から言い続けてる気がする。さすがに一人で行くのはさみしいんだけど誘うと渋られることが多い🥺なぜ?たのしそうじゃん。「超いい!!行こ!!予約した!!」くらいのスピード感で動きたい。みんな、空飛ぼうぜ。
●川下りで自然の緑と水を身近に感じる
最近、川下りの映像を見ることが多くて(すべて偶然)、そのたびに、やりたい😭😭となっている。できれば筏がいいけど、カヤックとかでもいい。とにかく川の水に近いところで五感を使ってはしゃぎたい。
怒涛の刺激イベント欲。
●デニム工場を見学して愛を育む
倉敷の児島というところはデニムの聖地らしく、工場見学ができるらしい👖たのしそ〜〜〜〜🥺お気に入りの1本を選び抜いて、何年も大事に育てるという素敵なことをしたい。
●絶品タッカンマリに舌鼓を打つ
これは常に欲してるから、達成してもすぐまたリストに追加される。タッカンマリ食べたいよ〜〜〜〜🥺🥺🥺鶏ベースのスープ、好き。一生食べたい。もうむり〜となるまで味わいつくす。
↑ここまでは誰かとやると決めていることたち。
↓ここからは一人でできることたち。
●大量の積ん読を消化する
「書籍代をケチる是即ち死」だと思っている&手元に置いておきたいだろうなという本は絶対紙で買う派(kindleは空間が制御されてる感じで無理だった)なので、平積みの本が部屋に大量発生している。全然読めていないから読みたいんだけど、今だっていうタイミングで読みたいから、読まなければいけないってなるのも違う。そもそも本を読み切るということが難しすぎる。とりあえず時間をつくりましょう。
●イッセー尾形の舞台を観る
ふと、映画「沈黙」で井上筑後守役を演じていたイッセー尾形の、狡猾×品みたいなゾワっとする演技がすごく印象的だったのを思い出して、調べてみたら一人芝居の舞台の予定があるらしく、これはと思ってチケットをとった。わくわく。ハマるハマらない関係なく、とりあえず体験してみるみたいな、そういう経験をたくさんしたい。
●墨で絵を描いて無になる
硯で墨をすっている時間、人間のストレスは減少するらしい。へぇへぇボタン(死語)。別にたいしたストレスはないんだけど、すりたい。する。頭は無だけど手だけ動いてるみたいな瞬間好き。スッとなる。
●部屋にミラーボールを置く(ナチュラルに)
ミラーボールを、クラブみたいないかにもな場所じゃなくて、洗練されたナチュラルな空間に「ちょ、え、それミラーボールじゃん笑笑」ってくらい自然に溶け込ませる。なかなか良いのが見つからないので現在探し中。キラキラしてるもの見るとテンション上がるよね。
●お直ししたコートに身を包む
毎年着てる黒いコート、おさがりだから肩の位置に若干時代を感じていて、気になるからお直しに出す。冬が来る前に、急務。
ほかにもたくさんあるんだけど、とりあえず今はこんな感じ。ひとまず明日はコートのお直し。
意図的に創り出すエモへの違和感
近年のなんでも「エモい」で片付けてしまう風潮に対してちょっとモヤモヤする。
なんでかっていうと、「エモい」と感じる瞬間は人それぞれ違って唯一無二なのに、誰もその「何」に対して、「どこ」が「どういうふうに」エモいのかを明らかにしないから。
多くを語るのは野暮な気がするし、情報量が多いと品がないなと思うけど、多くを語らないのと「エモい」の一言で終わらせるのは全然違うと思う。
エモいは語らないんじゃなくて、語”れ”ないってことだから(もちろん語れるものもあるんだろうけどね)。
私はエモって「アウラ」(←大学時代、ローソンの店員みたいな格好をしている教授から習った。気に入ってる)だと思う。
機会的複製によって芸術作品のコピーを大量生産することが可能になった時代において、オリジナルの作品から失われる「いま」「ここ」にのみ存在することを根拠とする権威のこと。
https://artscape.jp/artword/index.php/%E3%82%A2%E3%82%A6%E3%83%A9
その瞬間にしかないから儚いし、感情を揺さぶられるのよ。
だからSNSで <エモい写真を撮るためのポイント♡> みたいなのが紹介されていると、ウゲェと思う。
複製可能なエモなど本当のエモではないのでは?
なんか奥行きが感じられないし、表面的ナモノ、イラナイ……。
「こういう被写体だとエモくなるよ」とか、「こういう構図だとエモくなるよ」とか。
ちがうちがう。
そんな小手先のテクニックはいらないし、そんなんじゃアウラは生まれない。
まず、あなたは何に対してエモを感じるの? それはどういうとき? なんで?
そうやってちゃんと問いかけて出てきた答えは全部本物。
自分の感情とつながっているんだから、外側に正解を求めるの、やめようゼェ。
エモに限らず、二番煎じみたいなもの全般、飽きた。
もっと「生」を感じたい、と最近強く思う。
𝑳𝑶𝑽𝑬
亡くなった人に対して思うこと
ここ1〜2年、周りで数人亡くなった。
身近なところで死を経験する一方、新しい命の誕生も目にした。「ああこうしてみんな任期を満了して、この世界は循環していくんだなあ」と思った。
「先程、〇〇が亡くなりました」という連絡を受けるのはやっぱり慣れない。一瞬、すべてが停止して、えーっとえーっとどうしたらいいんだっけ...何を準備して、誰に連絡して......と自分のことばかり考えてしまい、故人を悼むどころではない。
正直、悲しみに暮れることも拍子抜けするくらいなかった。ショックのあまり受け入れられないというわけでもないのに。自分の感情が急に存在感を消すから、私はこんなに薄情だったっけか、と思った。
「輪廻転生」を、私は結構信じている。
もともと自分はボワッとした丸い魂のようなもので、今世を生きるためにこの肉体を器として選んだ、そんな感覚がある。
亡くなった人の蝋人形のような顔や手足を見ると、この感覚はあながち間違っていないのでは...と思う。文字通り、魂が抜けた後の"器"のように見える。
だから、遺体に向かって泣きながら話しかけている人を見ると、もうそこにはいないと思うよ、と伝えたくなる(そんな状況ではないからなかなか言えないけれど)。空の入れ物より、この空間、宙に向かって話しかけた方が伝わるんじゃないかなあ、と冷静に考えてしまう。
生きている人より、亡くなっている人の方が頻繁に意思疎通が図れるのではと思うこともある。物理的な障害がないから、呼んだ瞬間来てくれるような気がする。そして今思ったけど、こうやって呼んだとき、相手は真正面からは絶対に来ない。ななめ後ろらへんにボワっとニュルっと現れるような感覚。脳の仕組みと関係しているのかね。しらんけど。
オチのつけどころがわからなくなってきたのでそろそろ終わりにします。
自分は大器晩成型だと期待しているので、まだこの器を手放すわけにはいきませぬ。
大根と白滝
美味しいお酒を嗜みながら、好きなおでんの具について1時間くらい白熱の議論を繰り広げたい。
小説家の井上ひさしさんが
むずかしいことをやさしく、
やさしいことをふかく、
ふかいことをおもしろく、
おもしろいことをまじめに、
まじめなことをゆかいに、
そしてゆかいなことはあくまでゆかいに
と言っていて、乏しい語彙力でお恥ずかしいけれど、それな!!!と思った。
テレビを見ていて、むずかしいことをやさしく話しているコメンテーターの意見は自然と聞いてしまう。何かで「人は話の内容自体より話し方によって良し悪しを判断する(意訳)」という話を聞いたか読んだかした。本当にその通りだと思う。この人は、ただ"話し"ているのではなく、"伝え"ているんだなあと思う(これが悪いように利用されることもあるのだけれど)。
逆に、むずかしいことをむずかしく話している人を見ると、そんなもったいないことしないでよ〜、と思う。
難易のギャップが、その人の腕の見せ所であり、奥行きが伝わる魅せ場なんでしょう。
私はもっと魅せられたい。
茶道の考えの一つに、
点前には
重きを軽く、軽きをば重く
扱ふ味ひをしれ
という言葉があって、私はこれが結構好き。
お水が入って重たい水差しは何事もないかのようにスンって持ち上げるのに、軽い柄杓や茶杓は何回か持ち替えながらすごく丁寧に扱う。
軽重どちらかに偏るとお客様に違和感を抱かせてしまう。そうならないためのバランスをとるのが粋だゾ、ということ。シビれる。
いろいろ書いてみたけれど、冒頭でおでんの話をしたから、今、頭の半分くらいはおでんが占めている。好きな具は、大根と白滝。異論は認めるので気が向いたら熱く語ってください。
思い立ったが吉日
だと思う。なにごとも。
頭に浮かんだその瞬間に手を動かさないとすぐに忘れちゃう。
私は日々いろんなことを感じて、それに対してさながらパン屋のように脳内をこねくり回している。
そうしているうちに、いつの間にか作りかけのパンを大量に放置している状態になってしまったので、この場で配ることにした。
テーマやジャンルを決めると途端にやる気が失せそうだから、もう何も考えず、その日の気分で。明日はクロワッサンかもしれないし、明後日は塩パンかもしれないし。当分休むかもしれないし、在庫が減ったおかげでどんどん新しいパンを作るかもしれないし。
美味しいかどうかはわからないけど、賞味期限は長いのでご安心を。よろしければ召し上がってください。
(ちなみに私はごはん派)