意図的に創り出すエモへの違和感

 

近年のなんでも「エモい」で片付けてしまう風潮に対してちょっとモヤモヤする。

 

なんでかっていうと、「エモい」と感じる瞬間は人それぞれ違って唯一無二なのに、誰もその「何」に対して、「どこ」が「どういうふうに」エモいのかを明らかにしないから。

 

多くを語るのは野暮な気がするし、情報量が多いと品がないなと思うけど、多くを語らないのと「エモい」の一言で終わらせるのは全然違うと思う。

エモいは語らないんじゃなくて、語”れ”ないってことだから(もちろん語れるものもあるんだろうけどね)。

 

 

私はエモって「アウラ」(←大学時代、ローソンの店員みたいな格好をしている教授から習った。気に入ってる)だと思う。

 

アウラ

機会的複製によって芸術作品のコピーを大量生産することが可能になった時代において、オリジナルの作品から失われる「いま」「ここ」にのみ存在することを根拠とする権威のこと。

https://artscape.jp/artword/index.php/%E3%82%A2%E3%82%A6%E3%83%A9

 

その瞬間にしかないから儚いし、感情を揺さぶられるのよ。

 

だからSNSで <エモい写真を撮るためのポイント♡> みたいなのが紹介されていると、ウゲェと思う。

 

複製可能なエモなど本当のエモではないのでは?

なんか奥行きが感じられないし、表面的ナモノ、イラナイ……。

 

「こういう被写体だとエモくなるよ」とか、「こういう構図だとエモくなるよ」とか。

ちがうちがう。

そんな小手先のテクニックはいらないし、そんなんじゃアウラは生まれない。

 

まず、あなたは何に対してエモを感じるの? それはどういうとき? なんで?

そうやってちゃんと問いかけて出てきた答えは全部本物。

自分の感情とつながっているんだから、外側に正解を求めるの、やめようゼェ。

 

 

エモに限らず、二番煎じみたいなもの全般、飽きた。

もっと「生」を感じたい、と最近強く思う。

𝑳𝑶𝑽𝑬